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何故日本に「核密約」、「核兵器」 不破哲三氏が全容を事実、資料を駆使して詳しく、分りやすく話す  核による人類滅亡を防ごう!!

日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長が、20日に神戸市での「非核『神戸方式』決議35周年記念のつどい」で記念講演を行い、例の「核密約」、「非核三原則」をめぐる問題について話しました。

核兵器は、全人類の命をこの世から絶滅する、人類史最大の残虐兵器です。人間は、今、あらゆる課題に優先して、その解決のために取りくまなければならない焦眉の急を要する問題です。

思想信条を超えて取り組まなければならない問題だと思います。主権者の一人としては、時、場所を選ばず、警鐘乱打を打ち続けなくてはと思っております。

「非核三原則」を国是としならが、現実には、日本共産党以外の日本の政党が、今、核兵器の問題について対応することが弱かったり、遅かったりするのはどうしてなのか、大変疑問に思ってしまいます。主権者の一人としては、全政党がこの重大問題には迅速に、強力に取り組んでもらいたいと思っております。

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1、核密約問題が「非核の日本」への焦点となっている
政府の密約調査の結果は…

 不破氏は、冒頭、「米軍部が日本を拠点にアジアでの核戦争を最初に企てたのは、朝鮮戦争のさなかだった。それから約60年、国民が待望してきた『非核の日本』を現実のものにする展望が、私たちのたたかいいかんで手にできる時代がやってきた。そのためには、日本をアメリカの核戦争の計画にしばりつけ、アジア最前線の基地にしてきた『核密約』の鎖を断ち切ることがどうしても必要だ。そこに『非核の日本』に道を開く最大の関門がある」と語りました。

 では、鳩山内閣の「密約」調査の結果はどうだったのか。不破氏は、「私たちも政府に資料を提供してきたが、発表された調査結果を読んで、たいへん失望した」と述べ、「政府の調査結果の核心」として、次の3点を指摘しました。

 第一は、私たちが10年前に国会で政府に示した「核密約」の諸文書が、まぎれもない日米両国政府が取り交わした文書であることが、確認されたこと。

 第二は、岡田克也外相自身が、安保条約改定から今日までのあいだに、この文書にもとづいて核兵器を積んだアメリカの軍艦が日本に寄港していた可能性は否定できないと、政府として、「核持ち込み」の事実を認めたこと。

 第三。これがいちばん肝心だが、そこまで認めながら、報告書は、あの文書は「密約」ではないと言い張り、政府も、だから、廃棄する必要もないし、アメリカ政府とあらためて交渉するつもりもない、つまり現状のまま黙ってほうっておく、という態度を明らかにしたことです。

 不破氏は、「鳩山由紀夫首相も岡田外相も『非核三原則』を口にはするが、核問題での日米関係を変えるつもりはない、日本が核戦争計画にしばりつけられている現実には指一本ふれない、これではこれまでの自民党政治となにも変わりはないではないか」と指摘しました。

2、日米安保条約と核密約
朝鮮でベトナムで台湾海峡で。日本を拠点に核攻撃を準備
 不破氏は、核密約の本当の意味をつかむには、日米安保条約の歴史を見る必要がある、として、まず最初の安保条約(51年)下の日本の状態をふりかえりました。

 53年に成立したアメリカのアイゼンハワー政権のもとで、同年には朝鮮で、54年にはフランスとベトナムの戦争で、58年には台湾海峡で、アメリカの政府と軍部は何回も核兵器の使用をくわだて、そのたびに、日本を拠点にした第7艦隊の空母が、問題の海域に出動してゆきました。これらは、すべてアメリカの公式資料に記録されている事実です。

 たとえば、54年のベトナム戦争の最終段階、ディエンビエンフーに集結したフランス軍が包囲されて全滅の危機にさらされた時、米政府が2度にわたってベトナム軍への核攻撃を提案しました。フランス政府もそれを受け入れたのですが、結局は世界の世論を恐れて不発に終わりました。ディエンビエンフーの敗北後、野党の党首マンデス・フランス(次のフランス首相です)は、「核攻撃の日取りまで決まり、原爆を積んだアメリカの艦船はすでに航行中だったではないか」と米仏両国政府の危険な計画を糾弾しましたが、原爆を積んだ艦船とは、第7艦隊に属する2隻の空母でした。当時、第7艦隊は横須賀を拠点の一つとしていました。

 不破氏は、「当時は、日本への核兵器の持ち込みも、日本の基地からの出撃も勝手放題というのが、安保条約下の実態だった」と語ります。

 しかし、こんな状態では、日本が独立国だといっても、世界では通りません。同じ安保でも、もっと独立国の体裁をととのえよう、ということで、日米両政府が一致して、58年に始まったのが、安保条約改定の日米交渉でした。

「事前協議」と核密約の抱き合わせに安保交渉の焦点があった
 このとき、日本が「独立の証し」だといって主張したのが、日本の基地の使用について「事前協議」の制度を設けることでした。“基地は貸していても、戦争に使ったり、核兵器をもちこむような時には、事前に日本政府と相談する。これなら名実ともに独立国だといえる”。こういう仕組みです。

 この時のアメリカ政府は、まだアイゼンハワー大統領の時代です。「事前協議」の制度をつくるのはいいが、日本政府といちいち相談しないと基地を使えないようでは、日本に基地をおいておく意味がなくなる、「事前協議」の仕組みはあっても、実際の基地の使い方はこれまでどおり自由にやれるような道を見つけだそう、こういう考えで交渉をはじめました。実は、安保改定交渉のいちばんの核心の一つは、この問題の解決にあった、といってもよいでしょう。

 交渉は58年10月から始まりましたが、記録によると、アメリカの交渉担当者のマッカーサー大使は、「事前協議」といっても、軍艦や飛行機の日本への出入りは従前通り協議なしでゆきますよ、という話を、交渉の最初の段階から持ち出しています。

 不破氏は、「この交渉で合意したことを文書にしたのが『討論記録』という合意文書です。『討論記録』という名前にしたのは、日本側の注文で、それが万一明るみに出たときにも言い逃れをできるように、ということだった。合意ができたのは、59年6月で、マッカーサー大使は、そのとき、『今日、完全な合意ができた』という報告の電報を本国政府に打ち、新しい安保条約や事前協議の取り決めとともに、『討論記録』も、合意した文書のリストにあげている」と語りました。

 その後、いろいろな追加的な交渉があり、新条約調印の月である60年1月6日に、日本政府を代表する藤山愛一郎外相とアメリカ政府を代表するマッカーサー大使とのあいだで、「討論記録」など三つの秘密文書を互いに頭文字署名をして、それを公式に取り交わしていたのでした。

核密約(討論記録)を読む二つのポイント
 ここで、不破氏は、「核密約」の二つのポイントを丁寧に解説しました。

 ポイントの一つは、核密約「討論記録」が、政府が結んだ条約だということです。1月6日、この文書を取り交わした日に、マッカーサー大使が本国政府に打った電報は、「藤山氏と私は、本日、以下のそれぞれについて、二つの英文の原本に頭文字署名をし、取り交わした」として、署名した文書の最初に「討論記録」をあげています。しかも、電報は続く部分で、これをそのコピーも含めて「秘」文書として指定することも約束しあった、としています。こうして文書で合意を確認しあったものは、名前がどうであっても、まぎれもない条約なのです。だからこそ、マッカーサー大使は、核密約をふくむ一連の文書の全体を「条約を構成する文書群」として本国に報告しました。

 次の重要なポイントはその中身です。不破氏は、「討論記録」の条項(表(1))にそって詳しく解説しました。「討論記録」の冒頭にある「1節」は、公表する予定の、「事前協議」についての交換公文の内容です。これだけ読むと、日本での米軍基地の使い方は、すべて事前協議にかかるかのような印象を受けますが、これはあくまで発表用の文章で、それがどう運用されるかの「実施要領」は、秘密条項である「2節」で決められる、という仕組みになっています。

 「2節」の頭には、「交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成された」とあります。実施要領も、たがいに「了解」しあった合意文書であることは、明白です。ここには、四つの項があって、前半の二つは、交換公文の規定の説明で、A項では核兵器の持ち込み(地上配備)、B項では日本からの戦闘作戦行動が、それぞれ事前協議の対象になることが規定されています。この部分は、ごまかしの名目をつけて日本政府は後で公開しました。

 くせ者は、次の二つの項で、そこでは、何が事前協議の対象にならないかが、規定されているのです。C項では、アメリカの飛行機や艦船の日本への出入りは、「現行の手続き」どおりにする、現行とは、これまでどおりということで、事前協議の対象にせず、アメリカの自由勝手にまかせる、ということです。D項は、戦闘作戦行動にかかわることで、米軍が日本から移動することは、アメリカの勝手ですよ、ということです。

 つまり、表向きは事前協議の条項があっても、実際は、核兵器を積んだアメリカの軍艦の日本寄港もこれまでどおり自由勝手、核を積んだ爆撃機の日本基地利用も天下御免、「移動」という名目がつけば、日本を拠点に戦争地域に出撃することも自由にできる、こういう表と裏の二重底の仕組みを、日米の合意でつくりあげてしまったのです。

 不破氏は強調します。「これは、アメリカにたいして、軍艦や飛行機に積んだものなら、事前協議なしで日本に核兵器を持ち込む権利があることを、日本が認めたことです。だから、この密約があるかぎり、アメリカの軍艦や飛行機が核兵器を積んで日本に入ってきても、日本政府は文句をつける権利がないのです」

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「討論記録」全文
 1、(日米安保)条約第6条の実施に関する交換公文案に言及された。その実効的内容は、次の通りである。

 「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更ならびに日本国からおこなわれる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定に基づいて行われるものを除く)のための基地としての日本国内の施設および区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」

 2、同交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成された。

 A 「装備における重要な変更」は、核兵器および中・長距離ミサイルの日本への持ち込み(イントロダクション)ならびにそれらの兵器のための基地の建設を意味するものと解釈されるが、たとえば、核物質部分をつけていない短距離ミサイルを含む非核兵器(ノン・ニュクリア・ウェポンズ)の持ち込みは、それに当たらない。

 B 「条約第5条の規定に基づいて行われるものを除く戦闘作戦行動」は、日本国以外の地域に対して日本国から起こされる戦闘作戦行動を意味するものと解される。

 C 「事前協議」は、合衆国軍隊とその装備の日本への配置、合衆国軍用機の飛来(エントリー)、合衆国艦船の日本領海や港湾への立ち入り(エントリー)に関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない。合衆国軍隊の日本への配置における重要な変更の場合を除く。

 D 交換公文のいかなる内容も、合衆国軍隊の部隊とその装備の日本からの移動(トランスファー)に関し、「事前協議」を必要とするとは解釈されない。

 (注)2000年に日本共産党の不破哲三委員長(当時)が米政府解禁文書から入手した「討論記録」の訳。これは、外務省の調査で見つかったものと「修辞的な部分を除いて同じ」(同省調査報告書)ものです。

3、核密約下の日米関係史
 この核密約は、アメリカの権利を規定した大事な合意文書ですから、アメリカ政府は、これをたいへん重視して、秘密文書ではあっても、軍事や外交で日米関係にかかわる人びとは、必ず読んで仕事をするように、きちんとした管理態勢をとっているようです。

 ところが、日本では、違いました。国会内での政党間の闇取引について、以前は、国対の関係者のあいだでは、“墓場まで持ってゆく”ということがよく言われました。60年にアメリカと密約を結んだ岸信介首相や藤山外相は、政府間の密約も同じようなものだと考えたのか、内閣がかわったときに、次の内閣にひきついだ形跡がないのです。

1963年の日米政府間危機
 その結果、密約を結んで3年後に、日米政府間に危機的な状態が起こりました。

 63年、アメリカ政府が、原子力潜水艦の寄港を日本に求めてきた時のことです。アメリカでは、ケネディ大統領の時代でした。国会で、この潜水艦の核兵器のことが問題になったとき、池田勇人首相も防衛庁長官も、「核兵器を積んだ船の寄港は絶対に認めない。それは、当然、事前協議にかかる問題だ」とくりかえし答弁しました。

 それが、アメリカで大問題になったのです。ケネディ大統領が、政府と軍の首脳を集め、いわば「御前会議」で対策を議論する、という事態にまでなりました。そこで問題になったのは、“いまの日本政府は、核密約を知っていないのではないか”ということでした。そこで、当時のライシャワー駐日大使に、大平正芳外相と至急会って実情を確かめ、問題を解決するように指示をだしました。こうして開かれたのが、核密約の歴史のなかで必ず出てくる大平―ライシャワー会談でした。ライシャワー大使は、会談の模様の詳細な報告を本国政府に送っていますが、そのなかで、「大平は秘密記録の存在を知らなかったが、知っても少しもうろたえなかった」と書き、大平外相は、今後は、自分たちが核密約にそった行動をとることを約束した、と報告しています。

核密約とベトナム戦争
 不破氏は、ケネディ政権のこの対応の背景について、次のように語りました。

 「ケネディ政権は、南ベトナムにアメリカの軍隊を送り込んで、軍事支配の計画をすすめており、その年の10月には、国家安全保障会議が、南ベトナムを維持する道は、朝鮮戦争のようにアメリカの大軍を送り込むか、核兵器を使うか、この二つしかない、という結論をだしていました。その時、拠点となるのは日本です。そういう時に、日本の基地が自由に使えないようでは困る、ということが、おそらく背景にはあったのでしょう」

 ケネディは63年11月に暗殺されますが、あとを継いだジョンソン政権は、64年、北ベトナム攻撃の戦争を開始します。この戦争は、結局、アメリカの大敗に終わるのですが、アメリカは、その間、軍事的な失敗や危機が起こるたびに、核兵器による戦局の打開を何回も計画します。ベトナム駐留米軍の総司令官だったウェストモーランドは、戦後、“核兵器を使っていれば戦争の成り行きは違っていただろう”と残念がった、とのことです。当時、核兵器の使用という場合、最大の戦力は航空母艦ですから、このときも、日本は核戦争の最前線の拠点という位置にあったのでした。

 このように、核密約というのは、核兵器を積んだ軍艦が時々日本に入ってくるというだけの話ではないのです。核密約50年のあいだに、日本は核戦争の前進基地として、何度、戦争の瀬戸際まで引き込まれたか分からないのです。

とめどなく広がる拡大解釈
 不破氏はその上で、「最初のうちは日本の対応を心配しながら、という気配のあったアメリカだが、何をやっても大丈夫だとなると、厚かましくなった」と述べ、「密約」の拡大解釈が始まった経過に話を進めました。

(1)沖縄「核密約」(69年)とは

 69年の沖縄返還交渉では、佐藤栄作首相とニクソン大統領のあいだで、新たな核密約が結ばれました。その時、沖縄返還と核兵器の撤去が合意され、日米共同声明が発表されましたが、同時に、「重大な緊急事態」が起き、核兵器を再び沖縄に持ち込むことが必要になったときには、日本は、事前協議で核持ち込み(地上配備)を認めることを約束したのです。「再持ち込み密約」です。

 不破氏は、この密約で重要なことは、再持ち込みのために、沖縄の「現存する核兵器貯蔵地を……いつでも使用できる状態に維持」しておくことが明記されていることだと指摘しました。

 「核兵器というものは、核弾頭を持ち込んだだけでは使い物になりません。核兵器を維持・管理し、使用できる状態にするシステムが必要です。アメリカは、この密約で、そういうシステムを沖縄基地に持ちつづける権利を手に入れたのです」「政府が発表した密約調査報告では、“時間がたったから密約の意味はなくなった”などと書いていますが、核兵器を管理・使用するシステムを維持する権利は、いまでもアメリカの手中にあるのです」

(2)核空母の「母港」化受け入れ(72年)

 もう一つの重大な拡大解釈は、72年に横須賀を空母ミッドウェーの母港にしたい、というアメリカの申し入れを受け入れたことです。日本政府(田中内閣)は、「母港化というのは、乗組員の家族が日本に来るというだけのこと。核兵器を積むことはありえない」といって、これを受け入れました。しかし、これは、日本に申し入れる前に、アメリカの政府内で大問題になったことでした。国務長官が、“密約があっても、母港化までは無理だ”と懸念をとなえたのです。母港なら最低3年は居座るものを、「立ち入り」「寄港」とは言えないからです。それを、国防長官が“密約でやれる、大平との合意もある、心配は要らない”といって押し切ったのですが、国防長官の見通したとおり、日本政府(この時も外相は大平氏でした)は、なんの異論もとなえないで、受け入れたのでした。ミッドウェーは横須賀「母港」に結局11年も居座り、その後も、たえず、より新鋭空母に交代して今日にいたっています。

核密約文書を政府に示しての党首討論(2000年)
 不破氏は、続いて、10年前、「討論記録」という核密約を、アメリカ政府の公文書解禁のなかで発見し、2000年3月~4月、入手した全文書を政府に示して追及した国会討論をふりかえり、次のように述べました。

 「私たちは、事前にアメリカの文書を政府に手渡した上で、クエスチョンタイム(党首討論)で4回連続の質問をしたが、政府は『なにを出されても密約はない』の一点張り、“日米関係で何十年間も、うそを隠し続けるということがあるはずがない”とまで言いました。しかし、私たちがその時政府に示した諸文書が、真実の公的文書であったことは、いま、政府の調査によっても確認されました。そして、日米関係で50年間も、密約を隠し続け、国民と世界をうそであざむいてきたことも明らかになったのです」

4、これからが日本の「非核」化の正念場
核密約を否定する弁護論の数々
 「しかし」、と不破氏は続けます。

 「討論記録」の存在をはじめ、核密約をめぐる事実がこれだけ明らかになっても、日本政府は、「核密約はなかった」と言いつづけ、いろいろな議論を持ち出しています。それは、結局、核密約の弁護論になるものですが、不破氏はその一つ一つを、事実にてらして批判しました。

 弁護論その一。「文書はあったが密約ではなかった」――「討論記録」という文書の存在を認めれば、そこには、さきほど説明したように、核密約を含む「2節」の全体が日米両者の「了解」事項であることが明記されています。「了解」とは双方が合意していることであって、この文書がまさに日米両国政府の合意文書であることは、明白です。

 弁護論その二。「日米間で解釈が違っていた」――「討論記録」の「2節」を素直に読んでごらんなさい。A項で核兵器の持ち込み(地上配備)は事前協議の対象になる、としたあとで、C項で、軍艦や飛行機の出入りは事前協議の対象外だと規定したのです。これが、核兵器にかかる規定だからこそ、秘密事項にしたのではありませんか。

 弁護論その三。「アメリカは1991年以後、艦船から核兵器をはずしたから、核持ち込みは過去の話になった」――これは、岡田外相も国会でくりかえし、マスメディアでも結構言われている議論ですが、不破氏は、「それは米国の政策をまったく読み違えたものだ」と指摘しました。

密約にもとづく核持ち込みの危険はいまも続いている

 91年のアメリカの決定というのは、ブッシュ政権(父)の時代のことで、たしかに米海軍の全艦船(原子力潜水艦を含む)から戦術核兵器を撤去するというものでした。しかし、3年後の94年、クリントン政権がその政策を訂正し、「水上艦艇に核兵器を配備する能力は廃棄する」が、「潜水艦に核巡航ミサイルを配備する能力は維持する」ことを決定し、「核態勢の見直し」に明記したのです。

 不破氏は、ロサンゼルス級の攻撃型原潜のかなりの部分に、「核弾頭さえ積めば核攻撃ができるシステム」を残した、と述べ、「この型の攻撃型原潜が日本に来ていれば、94年以降も核を持ち込んでいる危険がある」ことを明らかにしました。

 では、問題のロサンゼルス級の攻撃型原潜は、日本に来ているのでしょうか。不破氏は、2003年から09年までと今年に入ってからの攻撃型原潜の寄港回数をあげました。(表(2))

 「去年1年間をとっても攻撃型原潜が来た隻数と回数は17隻59回、そのうちロサンゼルス級は13隻42回です。圧倒的多数が、核兵器積載の可能性のある原潜なのです。今年は1月と2月に3隻の原潜が10回出入りしていますが、2隻6回がロサンゼルス級。日本は、依然として、いざという時には戦術核攻撃のできる海上核戦力の基地として、ずっと使われ続けているのです。

 オバマ政権は、『核態勢の見直し』の方針をまだ発表していませんから、今後の問題としては、戦術核の配置の仕方が変わってくる、ということもあるかもしれません。しかし、核配置というものは、アメリカの戦略いかんでいつでも変えられるものですから、この危険を断ち切ろうと思ったら、核密約をきっぱり廃棄する以外に道はありません」

日本政府はなぜ、核密約の廃棄に踏みこめないのか
 日本政府はなぜ、核密約の廃棄に踏みこめないのか。不破氏は、そこには、沖縄の普天間問題で鳩山内閣がゆきづまっていることと、同じ議論――「核抑止力」論があるのではないか、と指摘しました。

 日本はアメリカの核の傘で守られているのだから、核がなくなったら困る、という「核抑止力」論です。

 「アメリカの議会が昨年5月、戦略体制についての報告書を発表しました。そこには、“アジアでは、われわれはロサンゼルス級潜水艦上の核トマホークに大きく依存している、報告をまとめる過程で、アジアの若干の同盟諸国がこれらの核の退役に懸念するだろうことが明白になった”と書いてありました。そして、この報告書には、意見を聞いた同盟諸国の外交官のリストがついていて、その筆頭に、日本大使館のメンバー4人の名前が書いてありました。結局、日本を守る『抑止力』だから、現状を認めるしかない、というのが、最後に残された理屈なのです」

アメリカの核戦力は「抑止力」ではない
 こう述べた不破氏は、「核抑止力」などとさかんにいうけれど、51年の旧安保条約の時代をふくめ、米国は日本の基地を使って計画してきた核戦争計画の相手は、50年代の中国やベトナムなど、核をもっていなかった相手ばかりだったではないか、と指摘しました。

 「日本を基地にしたアメリカの核戦力は、『抑止力』ではなく、『戦争力、侵略力』です。『抑止』という聞こえのいい看板のもとに、日本を、攻撃的、侵略的な核戦争の足場にする、これが『核密約』だということをはっきり見る必要があります」

 不破氏は、この大もとはいまも変わらないことを強調しました。

 「アメリカの軍事戦略のもっとも危険な特徴は、その基本が、核先制攻撃戦略だという点にあります。先制攻撃とは相手にやられないうちに先に攻撃する、という戦略。そしてその先制攻撃に、必要な場合には、核兵器も使うというのです。

 いま世界では、核保有国がまもるべき最小限の基準として、

 ――非核保有国には核攻撃はしない、

 ――相手が誰であれ、先制的な核兵器の使用はしない、

 という態度を求める声が世界的に起こっていますが、アメリカはどうしてもそれに応じようとはしません。それは、核先制攻撃戦略をとっているからです。

 そのことを考えても、被爆国日本の国土を、こんな危険な戦略の足場にする核密約の存続を許すわけにはゆきません。

 私は、みなさんとともに、日本政府が、ごまかしの議論はもうやめにして、日米間に核密約があったことをはっきりと認めてこれを廃棄する立場を明らかにし、『非核日本』への道を進むことを強く要求したいと思います」

5、「非核の世界」めざし被爆国の声をいまこそ
 「世界の流れはいま、核兵器の廃絶を現実のものとする方向に大きく変わろうとしています」――不破氏はこう指摘し、昨年12月の国連総会で圧倒的多数で採択された核兵器禁止・廃絶条約の早期締結を求める決議でも、今年5月にニューヨークで開催されるNPT(核不拡散条約)再検討会議でも、核廃絶条約への交渉開始あるいはそのプロセスの早期開始が問題になっていることを紹介しました。

 「いま大事なことは、核兵器廃絶という目標を、将来の目標というだけにしないこと、そこに向かって現実に足を踏みだすことです。昨年4月、オバマ米大統領が、“核兵器廃絶は米国の国家目標だ”と宣言したとき、私たちは、これを歓迎して、志位委員長が大統領あての書簡をだしました。その書簡では、大統領の宣言を評価すると同時に、これを先々の目標にして、当面はあれこれの部分措置だけをやろう、というのではまずい、合理的な部分措置はそれとしてすすめながら、核保有国が自分たちの核兵器をなくす条約の交渉を早く始めるべきだ、ということを提案しました。

 いまの世界では、国連の決議も、NPTの会議の計画も、だいたいその方向に焦点があってきています。まさに、日本国民の核兵器廃絶の願いが、世界政治に実るもっとも重要な時期を迎えています。

 そういう時に、日本がアメリカとの核密約体制を残し、自分の国土を核戦争のアジア最大の拠点にしたままでいて、どうして『核兵器のない世界を』の声を、被爆・日本国民の切実な声として世界にとどけることができるでしょうか。核密約を廃棄し、『非核三原則』が日本全体で現実のものとなる、こういう『非核日本』を実現してこそ、世界に被爆日本国民の真剣な声を発信できる、これが大事だと強調したいのです」

非核「神戸方式」が輝きを増す時代
 「核密約を廃棄したあとの日本はどうなるか」――不破氏は、その展望を語りました。

 「核密約を廃棄したあとも、残念ながら日米安保条約はまだ生きています。しかし、事前協議条項が、はじめて生命力をもつ、このことが大事です。

 そうしたら、日本に入港するアメリカの艦船は、次の二つの道のどちらかを選ばなければならなくなります。一つは、日本政府に申し入れて、事前協議の申し入れをする道です。もう一つは、自分は核兵器を持っていないという『非核証明』を関係機関に提出する道です。『非核三原則』のある国に入ろうと思えば、証明なしには入れない。つまり、日本全体が、非核『神戸方式』になるのです」

 不破氏は、いまから35年前の3月18日、神戸市議会が、「神戸港には核搭載軍艦は入れない」という決議をおこない、それを受けた神戸市が具体化の方法として「非核証明書」の提出という方式を編み出したことをふりかえり、「これはよく考えた、合理的な方式でした。実際、事前協議が空文化している日本では、神戸港の平和を守る道はこれしかなかったのです」と述べ、最後に次のように会場に呼びかけました。

 「核密約を廃棄した日本では、国土全体が非核『神戸方式』で守られます。そういう意味では、35年前に神戸のみなさんが生みだした知恵が、今日、『非核日本』の前途を照らし出しているのです。神戸での『非核』の声が日本全体のものとなり、世界でも『非核』の波が広がる、そういう新たな大きなうねりを生みだせるように、お互いに努力しあいましょう」
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